2010年01月25日
名前について
皆さんは自分の祖先をご存知ですか?
光山家のルーツに
「那須与一」がいるらしい。
でも一説によると、与一に子孫はいないとか・・・。
兄の人生の宿題で「家系図」の作成があります。
親や祖父母に聞いたり
墓石から分かる人をさぐったりしています。
今分かっている祖先は直系で8代遡り、
文久2年(江戸時代)に亡くなった人まで分かりました。
色々調べていると
色々な名前がでてきて
今の自分がいるのは
「この人達が出会ったおかげなんだな~」と思います。
ところで、
「光山」の世帯数は全国で1018戸だそうです。
多いのか?少ないのか?
調べたところ
「こうやま」と読むのは群馬だけなのでしょうか?
他には
「みつやま」
「こうざん」
「ひかりやま」などがあります。
鹿児島では町名になっていたり
埼玉では小学校名になっていたり
岩手では温泉があったり
特に私の苗字は珍しいので
自分のルーツを知りたくなります。
投稿者 光山 : 2010年01月25日 10:00
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コメント
赤山子=赤城山の子の意
初めまして!
私も光山(こうやま)です。 !!
私は旧伊勢崎生まれで現在も同市在住ですが、祖父は旧境町出身、本家は今も下淵名にあります。
お兄さんが家系を調べているそうですね、私も数年前から我が家の
家系調査→系図作製をしています。
そうした過程で光山さんのブログに行き着きました。
私の父は30年前に他界しており、父方の兄弟(叔父、叔母)も近年亡くなる方が多くなって口頭での伝承を聞き取り出来る機会が減ってしまい、慌てて家系調査を始めました。
2008年本家で聞き取り調査をしたのですが、翌年本家の当主の方が亡くなりました。
次代が女子だけで既に全員嫁いでおり、跡継ぎが居ない本家は耐える事になってしまいました。
「聞き取り出来る間に話を聞けて本当に良かった」と思いました。
光山さんの御家は那須与一流ですか!!
私の調査では我が家は
新田義貞が討ち死にした後、足利幕府の追捕(落ち武者狩り)を逃れて落ち延びた「新田の一族郎党」が
足利幕府・足利本家(栃木県足利市)の目を忍んで「大国神社」から木島一帯(淵名庄)に隠れ棲み、
後に足利幕府から赦免されて境町の開墾、開発に大いに貢献したそうです。
その中の一家であるとの伝承があります。
更にその伝承を辿り調べると、新田家から分家して太田市田市細谷に居を構えた新田義貞の祖父の兄弟の末裔に当たるようです。
上記の他の大本家で聞いた余談ですが七代前の先祖が国定忠治の売り出しの頃の子分で「ケンカ出入り」で殺された
事になっているが、実は下野二本松(現栃木県二本松市)に逃げ延びて余生を送りそちらに墓が残っている、なんていう
話も有りました。
地名ではやはり埼玉県日高市、鹿児島県の「光山」、岩手県「光山温泉」に(読みはこうざん?)、私もネットで見つけました。
電話帳で「光山姓」の分布をしらべていますが、私の調べでは全国で総数3000軒台で(読みはこうやま、みつやま、こうざん他含む)
少ない苗字なのは確かですね。
まだ調査途中で不正確ですが「光山=こうやま」は群馬を中心にその近県に集中しているようです。
今後も我が家の家系のみならず、「光山姓」についても調べて行きたいと思ってます。
自家の伝承や文献考証だけでは、なかなか思うように情報があつまりません。
「他家の 光山姓 の方の話を聞いてみたい」と以前から思っていましたが、そういう機会もないまま諦めていたところ
光山さんのブログを拝見して参考になり、同じ気持ちの方がいると知り心強く感じました。
そんなわけでつい嬉しくなり長文になってしまいました、すみません。
「光山姓」について新たな情報、資料がみつかったらまたお知らせします・・・
お仕事ガンバッテください、 ではまた!
投稿者 光山 赤山子(赤城山の子の意) : 2011年08月07日 02:55
光山 赤山子さん、初めましてこんにちは。
深夜にもかかわらず長文のコメントをくださって本当にありがとうございます。
赤山子さんの本家は下淵名なんですか!
私の家も下淵名なんです!!
お宮参りや七五三の時などは、大国神社で祈祷していただきました。
地番が分かれば、親・祖父母世代なら「あぁどこどこの光山さんねぇ」と通じると思います。
そして姓は違いますが、母が木島出身です。
なんだか縁を感じます(笑)
赤山子さんの調べ方はとても本格的ですね!
うちのルーツの話は、祖父母やその親戚達から聞き出した伝承になります。
おそらくあやふやな伝承・・・だと思われます(-U-;)
兄の作成した系図を、【2010年8月24日】のブログに載せています。
顔写真が載っているため詳細をぼやかしておりますが、よろしければこちらもご覧なってください。
もしかすると、祖先は同じ場所で同じ時を過ごしていたのではないでしょうか?
そんなことを考えるとなんだか楽しくなりますね。
新たな情報も楽しみにしています。
投稿者 光山 : 2011年08月07日 11:26
先日は突然の長文にて失礼致しました。
お兄さん作成の家系図拝見しました。
大変な力作、その御努力と熱意、想いの程が感じられるます。
何よりも御家族を大切にする想い、そして先祖を、血縁を大切にする篤き心が表われているように感じます。
私も家系図作製を志しておりますが、想い・心の面では遠く及ばないと感じ大変参考になりました。
暑さ厳しき折、今年も「お盆」の季節ですね。
今日、下淵名 妙真寺に「盆迎え」に行って参りました。
ながらく無沙汰していた本家筋の親戚の方と突然出会って話がはずんだり。
「盆と正月」なんて俗に言うけれど、そんな時にこそ親類・縁者が集い「一族の血縁」を確かめる。
「古き良き伝統」かつてはなんでもない日常の生活の中にあったこと・・・・
大切にしたいですよね、心の伝え。
現在は伊勢崎市内、自宅から車で約20分の下淵名です、近いところです。
にもかかわらず今回のような時や墓参の折、また少なくなったけれど本家を訪れる時、時々「ふっ」と感じるが事あるんです。
「遠祖の地」を訪れたというような「郷愁」のような、なんとも不思議な感覚を感じる事があるんです、たまにね。
なんだか言葉にならない 宮崎アニメ の世界のような・・・なんなんでしょう?
下淵名・大国神社・妙真寺・・・
三ッ古屋伝承 (・・伝承なんてちょいオオゲサ? 私が勝手に名付けました)
私が父から聞いた話。(前回内容と重複あり)
新田義貞が越前で討死した後、新田家一族、家臣の一部が
足利方の追捕を逃れる為旧地新田庄を避けて淵名庄周辺に隠れ住んだ。
当時下淵名一帯は起伏の多い丘陵地帯で、樹木が鬱蒼と茂り身を隠すには
好都合であった。
下淵名に隠れ住んだ者に三家有り、下淵名の開墾、開拓の中心となった。
後に古くから同地にこの三家に在りし事に因みそれが、下淵名・字三ッ古屋の地名の起源となった。
その三家の間には「一家でも絶える事の無きよう末代まで助け合う」との「盟約」が有り、
私(赤山子)の曽祖父の代にもその「盟約」に基ずいて婚姻がなされた・・・・と。
遠縁となり行き来は少なくなりましたが、その御家とは現在も親戚です。
ちなみに本家は鯉沼の東の方です。
(実は鯉沼ってワタクシ良く分からんです。本家の方が「あそこに鯉沼がある」とか言ってたもんで・・・苦笑)
問題の「三ッ古屋の三家」とは・・・・光山家・新井家・細谷家
光山家の他の二家の姓も上・下淵名から伊与久、木島にかけて多い姓のようです。本家のご近所にもいらっしゃるようです。
本家でも同様の内容を聞き取り、本家墓石に「享和二年(1802年)俗名 三ッ古屋 光山元八」との記名が有るのも確認出来ました。
更に裏付けを取るべく、境町郷土史ー中世史を調べると「南北朝の乱」の後、隠棲~土着した「新田一門」が淵名庄の発展に寄与、
貢献した旨の記述も有り、「我が家の家伝も大筋で史実に相違ない?」と確信しております。
私も父も下淵名には詳しい土地勘がありません。
ですので聞き伝えの範囲の内容なので、あまり正確とは言えないかもしれない。
地名の伝承などは地元の方のほうが当然のこと、より正確、且つ詳しく御存知だと思います。
まぁ「こんな話もある」という参考程度の話としてお聞きください。
今回はこんなところで・・・・
投稿者 光山 赤山子 : 2011年08月14日 02:55
度々の御騒がせ恐れ入ります。
コメント中に誤りがありましたので訂正致します。
訂 正
2011年8月7日 コメント
誤 実は下野二本松(現栃木県二本松市)に逃げ延びて余生を送りそちらに墓が残っている
正 会津二本松(現福島県二本松市)
2011年8月14日 コメント
誤 本家の方が「あそこに鯉沼がある」とか言ってたもんで・・・
↓
正 8/16墓参の折、「鯉沼がある」らしい場所を探してみましたが、見つかりませんでした。
その時合った近所の方の話では「大分昔に埋め立てられたんじゃないか?」との事。
「鯉沼がある」ではなく「あった」の聞き間違いだったようです。
ちなみに私の曽祖父が明治、大正の頃に「鯉の養殖事業」を手掛けた、と云う話の中で私が
高校生時代(ケッコウ昔・・・笑)に聞いた話しです。
以 上
投稿者 光山 赤山子 : 2011年08月19日 15:17